非権力の発明

「説明責任」をどう捉えていけばいいのか……
kyokotom 2026.05.28
誰でも

 日本の一時帰国からウィーンに帰ってきた。今回の滞在は取材も多かった。特にこの度の反戦デモの盛り上がりに関してはほぼ毎日取材を受けたが、いつもは「このデモは新しい」「若い人が多い」「楽しいデモで誰もが参加しやすくなっている」といった報道の紋切り型に収められるのがいやで、取材をお断りすることも多いのだが、今回はそれもあまりない。

 古いか新しいか、意義があるかないかという問いにとどまらず、より社会運動の見方をめぐってニュアンスある議論ができるようになっているし、報道の受け手の人々も、敵味方さもなくば冷笑という図式を抜けて議論を受け止めてくれている気もする。日本の人々が社会運動を「見ること」に慣れて、賛否や成否ではない豊かな見方が可能になればと願ってきたが、そうなっているのかもしれない。どういう原因によるものかはわからないが、私の立場からすれば良いことだと思う。

上は毎日新聞、下は共同通信のインタビュー。毎日新聞の方は、記者さんと語るうちに盛り上がって「DIY」という形容が出てきた。共同通信の方は反戦デモではないが、社会運動の「激しい主張」をどう捉えるか……というお話。


 私は取材を受けても受けなくてもいい立場なんだよな、となんとなく思ったのは、Abema Primeで元デジタル大臣の平井卓也氏と話した時。この番組には政治家がよく出る、というか、政治家はどの番組にもよく出る。それは公的な職業だから説明責任があるためで、政治家のオーラルヒストリーが可能なのもおそらくはこの公的な性格に根ざしている。そして「語りたい時に語っていい」立場と、「語らなければならない」立場は大きく異なる。 
 ただ、これは公的な職業に就く人の職業倫理的なものであって、別にルールとして明示化されているわけではおそらくない。だからそういう倫理を内面化しない人が政治家になれば当然崩れる、というのは、高市首相の振る舞いを見た時に感じた。高市首相のさまざまな振る舞いの中でも、公的な場で「語らない」「対話しない」といった点がクローズアップされているが、本人が非権力で非公的だと自らを捉えている、と解釈すると、なんとなく理解できるところもある。特に意図があって逃げているとか責任をとらないではなくて、説明するかしないか、対話するかしないかを「選択可能なもの」だと考えているのではないか。

 世襲でもないマイノリティにとって、政治家は「ならなければいけない」というより「なりたくてなるもの」に近いと思う。もちろん、政治家になり仕事していくことで、支持者や支持母体が増え、感覚も変わってくるのだと思うが。ともあれ、なりたくてなったから、何かをしなければならないという責任や義務の側面よりは、意思や任意に基づいて行為して良い、と考える側面が強いのではないか。
 だから市井の人がメディアでの社会運動発信を「やりたい時にやる」、対話の相手が苦手なら断ってもよいように、情報発信や対話を「やりたい時にやる」さらに言えば「しなくてもよい」。高市首相の振る舞いにはどこか身に覚えのあるものもあって、それらはすべて、非権力で私的な存在にとっては前提のものだが、権力側で公的な存在とすると異例というか、あまりよろしくない意味で発明だと思う。これは高市氏の責任でありつつ我々の社会の責任でもあり、なって当然という人ばかりがずっと首相になっていたばかりに、今更になって発見されてしまったよくない発明という印象がある。

冒頭に書いた「社会運動の豊かな見方」を論じた社会運動論の本。社会運動が起こるたびに「これはこういうふうに見ればいいのかな」といろいろ考えを巡らせられるので、もしよかったら手に取ってみてください。

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