デモの「新しさ」を強調した報道の課題
この間の反戦デモなどの関連で、デモ報道に関する取材依頼をいくつかの媒体からいただいているので、事前に話すことをまとめておこうと思う。
大規模な社会運動が起こると、上記のように、デモの担い手が「若い」、あるいは社会運動のやり方がなんらか「新しい」といった点を強調する報道が見られるようになる。割とまとまったことは以上の報道の「コメントプラス」(一番最新のもの)に書いているが、この度の反戦デモが実態として「新しい」か「新しくない」かということはあまり重要ではないと思う。私のように、フラワーデモや気候変動に関する運動といった数年前の社会運動との連続の側面を強調すれば「新しくない」と考えるだろうし、2000年代や2010年代のイラク反戦運動や安保法制抗議行動と比べる人は、参加者の男女比や世代比などは異なるであろうから「新しい」と評価する。
よくこの度の報道で指摘される「ペンライト」の使用についても、10ヶ月前に見られた「石破辞めるなデモ」でも報じられた継続的な工夫であるが、10年前はなかったわけで、10年前と比べて新しいと言えば新しいといえる。ただ私はより近い過去の社会運動との連続性の方を重要視するので「石破辞めるなデモでも見られましたが……」「何かを持つことによって参加のハードルを下げるというならフラワーデモもそうでしたよね」とも感じる(社会運動の世界は運動の実践や蓄積に詳しい人が多いので、こうした歴史についてもっと詳しく論じることのできる人は大勢いると思う)。
新しさを強調すると何がよいのか・課題になるのか
デモの「新しさ」、担い手の「若さ」を報道が肯定的に強調すれば、それまでのデモが入りづらい・行きづらい・年長者が多いと感じている人が参加しやすくなる、という効果は想定される。一方、同じ社会運動のうち一方を肯定的に報道すると、そうでない側との分断がむしろ運動の内部において生じるという研究もある。
例えば以下は、私の研究対象に寄った内容で恐縮なのだが、使用されていない家屋を占拠・活用して活動するアクティビスト(スクウォッターという)を「穏健・文化的・平和」と「攻撃的・危険・迷惑」へとステレオタイプ化して報道した結果、そもそもなぜその社会運動が行われているのか、という文脈から切り離した報道をしてしまうとともに、前者の担い手自身も、後者の担い手と自分たちは違うのだ、という点を強調して活動するようになるという研究だ。報道も、社会運動をしている人々自身も、特定の社会運動の「他者化」に寄与してしまうということになる。
今まで述べた通り、「新しい」も「新しくない」も見え方と比較対象による違いでしかないので、メリットとデメリットを検討しながら言説を展開することが望ましく、どちらが良い・悪いということではない。
ただ、先行研究の議論を踏まえた上で、私は特定の社会運動を「新しい」とか「(参加者が)若い」と評することはあまりしたくない。「このデモはポップで新しい」「このデモの参加者は若い」という評価は、常に「過去の古臭い年長者中心のデモ」を前提として存在しており、過去の蓄積や年長の参加者を切り離す言葉でもあるためだ。さらに、こうした評価をしている限りにおいて、評価者は日本社会に対して常に「社会運動が盛んではなく、運動を継続的にしている人は年長者ばかりで、特に若い人は社会運動に有効感を感じず声を上げづらい社会」という評価をし続けることになる。
ただ、そのように評価され続けた数十年間についてもデータとしては結構変動がある。ここで示すのは「18歳意識調査」であり、「私の行動で国や社会を変えられる」と答える18歳の割合は、2019年に18.3%だったが2026年には52.7%だったのだそうだ(鈴木謙介先生のブログがわかりやすいのでリンクを貼ったが、調査全体も面白い)。
もちろん、単純に以下のデータを指して「若い人はどんどん政治への関心を高めています」とか「政治的有効性感覚が高まっています」と言うつもりはない。なぜなら若年層の社会運動参加ひとつとっても政治的な情勢に左右されることが多く、今後また変動する可能性もあるからだ。ただ、意識や参加において変動がある割に社会運動への評価や報道は常に同じことの繰り返しというのは、つまり報道する側なり見る側のほうが手癖に任せた書き方・見方をしてしまっているのではないか。
また、年を取ってわかってしまったのは、私自身もやはり社会運動とか政治への関心を持つ若い人や年下の人が目の前に現れると、ちょっとウキウキしてしまうということだ。先日Abema Primeで「各政党の学生党員による討論会」という企画に同席したのだが、ちょっと必要以上に褒めてしまって、帰りにものすごい自己嫌悪に陥ってしまった。年下であることや若さイコール政治関心の薄さ、社会運動への不参加というわけではないのは、この10年以上研究して理解していたはずなのだが……。自分自身を顧みてもこういう「手癖」というか考え方の癖は抜けにくいものだと反省する。
最後に、少しマスコミ批判的にもなってしまったが、以下のように特定の担い手の属性に依拠しない報道も増えているので、その点もきちんと付記しておきたい。
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