デモ参加に日当は出るのか?

という問いから考える社会運動とお金の関係
kyokotom 2026.03.29
誰でも

 国会議事堂正門前で3月28日に「オタクによる反戦デモ~推しのいる世界を、戦場にするな。」というデモが行われた。社会運動、特にデモの参加率が低いとされる日本において、平和運動は例外的に参加者が多く、この20年ほどを見てもイラク反戦運動、2015年の安保法制抗議行動などが見られる。そのたびにデモにもその時々の工夫が見られ、社会運動に参加したことがない人が参入し、運動経験者も増えるため、社会運動の文化を形成・刷新する機会になっている。

 そしてこういう大規模なデモの際に必ず行われる批判が「デモには日当が出る」というもので、デモ内ではこうした批判に対する反論も行われたそうだ。本来なら仕事や余暇に費やすはずの少なくない時間を費やし、交通費やデモに使うさまざまな道具・機材を購入しているわけで、むしろ負担の方が多い。そういう人たちが「日当もらってるんでしょ」と言われたら反論するのはもっともだし必要だと思う(以下のポストがまとまっているので参照させていただいたが、この人、またここで引用されている人を特段称賛したり批判する意図はない)。

 ただ、この批判と反論を見るたびに、私は社会運動とお金の関係を考えてしまう。たとえばこうした批判や反論をする人たちにとって、NPOや労働組合の専従職員はどう見えているのだろうか。それは組織運営の労力に対する賃金だからいいということになるのだろうか。だったら、なぜデモ主催者が何日もかけて企画し、広報したことに対する対価を支払うのはなぜダメなのだろうか。デモ参加者にせよ、本来なら仕事をしてお金を得られるかもしれないはずの時間を活動に費やしているわけで、その対価があったほうがいいと思う。

 ただ、かりにそういうシステム(参加できないが主張に賛同している人がお金を集め、代表して参加してくれる人に分配するとかだろうか……)があったとして受け取る人はおそらく皆無だろう。それは現実的な財源の問題ではなくて「アクティビズムこうあるべき」という、社会運動参加者が抱きがちな感覚の問題である。これは社会運動論ではActivist Identity(アクティビスト・アイデンティティ)研究で議論されている。

 実は「社会運動参加者は清貧でなければならない」と思いがちな傾向というのは国内外問わず社会運動で結構あるようだ。たとえばアムネスティで活動するアクティビストが、貧困状態にある支援対象の人々を思い、老朽化した事務所や低い賃金で頑張ってしまうというRodgersの論文はその先駆だが、こうした「清貧」状態を続けると、社会運動をする環境自体が悪化するので、アクティビスト自身が燃え尽きてしまうという示唆も残している。

 清貧であることこそ真剣に問題に関心を持っていると考えがちなのかもしれないが、別にお金をもらっていないから純粋に社会問題を考えるというわけではない。かつ、不純であることが別に悪いとも思わない。たとえばデモに行くのに、ただ友達と会いたいからとか、人の大勢いるところで自分の作ったプラカードを見て欲しいとか、帰りに都心のカフェに行ってみたいとかそういう動機が混じってもいいだろう。というか、そういう不純を許容する余裕がなければ「純粋」を継続できる環境の人ーーたとえば、周囲に理解があり、清貧を続けられるだけの資産がある、というようなーーだけが残ってしまう、というCorrigal-Brownの知見もある。

 ……デモと日当の話題からだいぶそれてしまったが、清貧であることと問題に真摯なことは全く異なる問題だし、また、清貧であり問題に真摯だからといって社会が変わるわけでもない。だとすれば、少し余裕を持って、たまには贅沢したり楽しんだりしながら、持続的に社会運動をやっていくことが必要なのではないかと思う。

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