古くなった自分
AFPPという社会運動論の国際会議が毎年マンチェスターで開催されていて、6月15日から17日まではそちらに行っていた。この会議自体はものすごく長いこと開催されているのだが、私自身はコロナ禍の前後からよく参加するようになって、研究室やプロジェクトの人々と参加することも多い。同じパネルには、インドやシンガポール、中国といった国々の研究をしつつ、UKで教育を受けた若手研究者たちが多く、彼女たちと話すことが多かった。この10年間でこの会議はどう変わったかと聞かれたので、東アジア・東南アジアの研究をしている人々が増えた、と答えた(ちなみに日本はあまり変わっておらず、数年前から参加者はずっと私一人か、たまに二人、三人になるくらい)。これは確実にポジティブな変化だと思う。
新鮮に感じたのは、自分より一回り若い人たちが、フロアの参加者から東南アジア権威主義の文脈についてもっと説明してほしいと言われて「英国の事例を報告するとき、あなたは私たちと同じくらい背景を説明しているわけではないですよね?」と怒っているのを聞いた時のことだ。この学会ではローカルなセッションもあり、こうしたセッション自体はマンチェスターの地域性を知る上で大事なことだと思うのだが、それに関しても「事前説明なしでセッションが始まるからイギリスの人しかわからない」という批判があった。私もずっと同じことを思っていたけど、それをここで怒って良かったんだなと思った。そういう意味で、自分より新しい社会を生きている人々の怒りに「わきまえてきた」私としては新鮮に感じる。そういう意味で、共感もしたし、感銘も受けたのだが、同じく非欧州を研究している人とはいえ、こちらで教育を受けた若い人たちの流暢でスピーディな英語にはついていけないことも結構ある。この会議はいろいろな文化的背景を持つ人がいることを踏まえて、ランチは菜食が中心になっている。しかし、アップデートされていない私は肉も食べたいし、なにより部屋では子どもも待っている。なので、ご飯は帰って食べた。
彼女たちのいう、いわゆる「欧米のマジョリティ的な仕草」でなくとも、私も何がしか老害仕草をしているのだろう。子どもを会場に連れてきた参加者も私ひとりだったし、私がお世話になった少し年上の研究者たちも、公私のもろもろで忙しいためかここには来なくなった。別にこれは誰が誰を排除しているとかじゃなく、どのような集まりでも、その集まりの中にいてcomfortableな時期には限界があるのだろう。うちの院生さんの方がおおむねAFPPでは活き活きしているようにも思う。
また、報告のなかで増えたと感じるのは、環境問題やケアの議論のほかに、「概ね同じだけに細部で分裂してしまう」という、社会運動の分裂・組織問題(私はこれを「アイデンティティ・ポリティクス」みたいな言い方でまとめるより、組織論の課題と捉えた方が運動論的だと思う。もちろん、組織的な仕組みで全てが解決するとは思わないが、アイデンティティの問題にした途端組織論が不可視化されてしまう)。どの社会も課題は同じだよなと思ったりした。
この学会は、社会運動従事者の燃え尽きとか、必ずしも人を集めたところでそれがちゃんと社会を変える力になってないとか、そういう「大事だが、社会運動の中ではなかなか話せないこと」を研究する報告が少なくなく、実務家と研究者を兼ねている人も多かった。確かに、社会運動にある意味で疲弊した人が、自分が何に疲れていて何が語れなかったのかということを捉える一つの方法としても、社会運動論は有効なのかもしれない。
ちなみに私自身は、「高山建築学校」という、毎年空き家を活用して行われるサマースクールにおける「モノ」を通じた政治について話したが、事例を盛り込んでいるうちに楽しくなりすぎて細部に寄り過ぎたと喋ってから思った。ちなみに洗濯機については社会運動論でも結構多くの議論があって、特にジェンダー役割との関連が強いが、今回はそれとは異なる社会的関心が反映された、という話をした。

これだけだと分かりづらいが、住民たちの政治的問題関心が洗濯機の位置に反映されやすいという話をした。この議論自体は、どちらかといえばジェンダー役割の文脈で論じられることが多い(洗濯機などの家電が男性用更衣室より女性用更衣室の近くに洗濯機が置かれることが多い、など)が、今回はそれとは異なるという点で事例の特殊性がみられた。
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