「しがらみ」「ガス抜き」はそんなに悪いことなのか
前回の記事に加筆したものが聖教新聞に掲載されることになった。1月29日付です。このプラットフォーム自体は朝日新聞社さんからもらったものなので、個人的な後ろめたさはあるが、全部同じというわけでもないのでいいだろう。聖教新聞はたしか会員でなくともオンラインで一週間くらい読めるはずなのでまた公開されたらお伝えします。
記事化にあたり、聖教新聞社の方々との雑談をしたのが、それも面白かった。いま、全国で、立憲民主党への連携に抵抗感を持つ支持者の人々をなだめたり説得したりしている、という話だった。この話を聞いて、連合総研との共同研究の際に、ある産業別労組の方がされていた「職場の問題解決と言ってもたとえば事務所の所長とパートさんの仲が悪いとか、そういう、政策にも結びつかないような、言ってみればしょうもない相談に乗るのも相当ある」という話を思い出した。
ここで私の頭に浮かんだのは「ガス抜き」という言葉だ。「なだめたり説得する」や「しょうもない相談に乗る」は社会運動ではない。共助ではあるものの公助にはならないからだ。言ってみればとりあえずの対応であり、むしろ問題を根本的に解決したい社会運動からは忌避・攻撃される立場だろう。しかし、「なあなあにする」ことで連合(というか労働組合)や創価学会といった中間集団が長年持続しつつ、漸進的に地域や社会の課題を解決し、賃上げや教科書の無償配布といった政策を進めているのも確かである。
また、労働組合や他の中間集団の話をすると「非正規は守られない」「特定の人だけの組織」と批判する人もいるが、メンバーシップにすべての人を現状含まないからと言って多くの人の役に立っていないわけではない。前回書いた、小売・サービス業の労組が取り組んだカスハラ関連の条例のように、メンバーシップを超えて役に立つ政策形成や支援を行っている。ちなみにこれは自動車総連の取り組み。
また、中間集団に対しては「しがらみが強い」という批判というか悪口もある。これについては、協同組合や生協運動を長年研究されてきた三浦一浩先生(「つらね」先生)が当方の記事について書いてくださった連続ツイートが勉強になる。中間集団やその組織内議員は、ある種「集団」の力がストッパーになっているから、政策も活動も穏当で、政治との関係でも極端なことはしない。これは大きな変革をすぐには起こせないということでもあり、バズらないし目立たないということでもあり、強い対抗性や批判性も持ちづらく、おそらくここが社会運動をしている人からすれば物足りないのかもしれないが……。
このような中間集団の姿勢は "ある人たちから見れば「しがらみ」に見えるのかもしれないけれども、過激なポピュリズムに走らず、まっとうな取り組みができるともいえる" と三浦先生は続ける。
「自分で選んだ」という主体性や自主性、自律性にこだわり「しがらみ」を嫌う現代人の私たちは、選挙の場合、自分の考え方と合う政策とか理念とかを重視して政党を選択するんだと思う。そしてそれがただしい態度だと考えられているが「この政策を掲げているからこの政党」という投票のあり方は唯一の選択肢ではない。むしろ自分の選好との完全な合致を求めすぎた結果、異なる部分が現れたら「がっかりした」「裏切られた」といって離れていったり攻撃したりするのは、オンライン上の社会運動などにもよくみられる。さらに、判断の基準が自分しかないものだから、大きな変化を起こそうとしたり、ぱっと見新しくしてくれそうものに転びうる。
個人的には、主体性・自律性にこだわった結果、自分の政治姿勢との合致を求めて政治家や政党を選ぶ姿勢は、政策が実現したらそれでよし(実現されなかったら「がっかりする」)ということになるので、政治に対するお客様・消費者化に転じてしまうことだって十分にあると思う。それを考えると、大雑把に方針が合っている議員なり政党を選んで、そこに投票した後もコミットし続けて政策を実現してもらうほうが「自治」らしいような気もする。形になっていないこれからの大きな変化への期待もいいが、小さくとも着実に変えてきたものへの信頼を高められる社会にしたいとも思う。
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