中間集団と社会運動の「見られ方」

中間集団と社会運動の「見せ方」を変えるべきなのか、そもそも変える必要あるのか、という話
kyokotom 2026.03.08
誰でも

 全然プライベートの話で恐縮なのだが、連合、創価学会、生協総研、連合総研、また今回の選挙に尽力された中道の議員秘書の方々と飲み会をした。全くのプライベートなので選挙総括とかではなくて、単に一度、皆さんと一堂に会して飲んだら楽しいだろうなと思って友人としてお声がけしてお越しいただいたが、やはり楽しかった。多くは選挙の話だったが、中間集団は日常と政治、選挙を間断なく繋ぐという面において重要な役割を有していると私は考えているので、日常のお話を楽しく聞いた。
 「選挙で恋生まれがち」「仕事何してるの?と聞かれて回答に困りがち」「カミングアウトしたときの周囲の反応あるある」など面白い話がたくさんあった。私自身は、博士論文で社会運動組織の下位文化(サブカルチャー)を研究したが、それで言えば自組織の下位文化(サブカルチャー)に自覚的で、ちょっと自虐的というのが中間集団の人の共通点かもしれない。あと、スーツ率が高かった。日本の中間集団は今流行りの表現をするならやはりJTC(Japan Traditional Company)的で、日本の大企業の人と仕事をしている時とあまり変わらない感覚がある。

 これだけだと日記になってしまうので、少し社会運動研究者としての話もすると、勉強になったのは、中間集団の人々から見た「#ママ戦争止めてくるわ」の話である。私は特にリベラルな社会運動を基本的に応援する立場でいるし、声を上げることというのは自由になされるべきだと思うので、それ自体は応援するが、明示的に得票として多くの人の支持を得なければならない選挙運動とは異なる位相にあるという立場だ。社会運動(ここではオンラインデモ)の参加率はだいたい5%程度だが、5%だから意味がないのではない。5%でも政策や世論、政治的意思決定に影響した事例はたくさんある。しかし、多くの人の支持を得なければならない選挙運動となると、戦略のあり方が変わってくる。私は特にこの点では雨宮処凛さんの論考が勉強になったが、あまりにハイコンテクストであるものだと内部での危機感や連帯感は共有されても外部からはわかりづらいということもあるだろう。
 ここでした話についてあまり具体的なことは書けないが、宗教運動と社会運動の共通性はなんなのか、どの点が選挙運動と相性が悪いのか、ということをずっと考えている。社会運動も宗教運動も、個人的なことが政治的なことであり、かつ、掲げている理念を正しいと信じているがゆえに「裏表がない」ことを自分たちに許容してしまう。だからこそ、社会運動の言葉で選挙運動をやってもいいのと同じように、信仰の言葉で選挙運動をやってもいいという認識になる。しかし、それではハイコンテクストすぎてわからなかったり、切迫感を押し出しすぎて引かれてしまう、ということもある。

 ここで注意したいのは、だから見られ方に気をつけて、優しい言葉を使おうとかオシャレにやろうとか言いたいわけではないということだ。多くの人の支持を得られないから見せ方を変えようというのは、イラク反戦運動や安保法制抗議行動など過去の社会運動がずっとやってきたことであって、それでも「思想強い」「意識高い」「なんか怖い」と言う人はいる。雨宮処凛さんは上の論考で、なるべく違う思想の人、政治に関心のない人と付き合いながらサポーターを増やしていく、といったことを勧めている。

 実はずっと温めていた連載のアイディアで「あやしくて何が悪いの?」というものがある。公助や共助といった「いいこと」をやっているのに、誤解や無理解によりなんか怪しいと思われている中間集団の人々とプライベートなことも含め対談することで、中間集団って別に特殊なことではないし、生活の延長線上にあるし、別にあやしくてもそのあやしさって他の社会的営為(学校の部活とか会社勤めとか)の特殊さと変わらないんだよ......と思ってもらおうという企画。
 正しいことをやっているのに「あやしい」と思う社会の方が100%悪い、と社会運動をしている方の多くはおっしゃるだろう。一方で「確かに私たちはあやしいよ、でもあなたたち(社会運動や中間集団を白眼視している人)も同じくらいあやしいよ」と言い続ける選択肢もある。さきほど日本の人口でオンラインデモに参加している人は5%と書いたが、ほかに5%くらいの人がやっている活動はどんなものがあるのかというと「競馬・競輪・競艇」「ヨガ・エステ・ネイルサロン」なのだそうだ。「ギャンブル好きな人」「美容に結構意識が高い人」くらいの感じで自らを捉えてみるのもありなのかもしれない。中間集団の人々は濃淡あれどその可能性の側を模索しているという意味で、私と感覚が近いのではないかとも感じた。
 ちなみに、これは少しこのLettersでも書いたかもしれないが、「しがらみ」を忌避する傾向にも割と近いものを感じている。しがらみって「ない」ほうがいいもので、中間集団なんかそのしがらみに囚われている最たるものだと捉えられがちだが、でも大体の人は学校なり、出身地なり、何らかのしがらみの中にいて、それを意識しないだけなんじゃないか。そう考えると「しがらんで何が悪いの?」とも思う。

 ちなみに、創価学会の人たちとこんなイベントをします。私なりに「違う人」との交わりを企図してもおります。また面白い話が出てきたら、書ける範囲でここに書きます。

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