新党と中間集団についてのメモ

新党について急遽インタビューを受けることになったのでメモしておきます。
kyokotom 2026.01.21
誰でも

 ある媒体から新党(中道改革連合)に関連するインタビューを受ける予定なので、少しメモしておきたいと思う。まず、私自身は政治意識や政党に関する研究者ではないので、新党というよりは、それを形成している立憲民主党や公明党の支持母体である、労働組合や創価学会との仕事の方が多い。いわゆる「中間集団」とか「中間団体」と言われる組織で、それ自体がメンバーの共助の基盤ともなるし、組織内議員を通じて自分たちの支持する政策を実現することで公助の基盤ともなる。

 中間集団は悲しいかな日本社会では「オワコン」と認識されがちというか、より丁寧に言えばポジティブな意味での存在感が薄い。「JGSS(日本版総合的社会調査)」の「人や組織に対する信頼」でも、宗教団体は「信頼していない」と答える人が8割を超えてるし、労働組合はそもそも「わからない」と答える人が3割程度である。ちなみに連合の「勤労者短観」でも、自分の職場に労働組合があるかどうかわからないという人は20年前から10ポイントほど上昇しており、2割にものぼる。たぶん、PTAでも町内会・自治会でも青年会議所でも生活クラブ(生活者ネットワーク)でも事情はそれほど変わらないのではないか。ちなみに私はこの中のいくつかの中間集団とも仕事をしており、だいたいどの組織も同じようなことで悩んでいるという印象だ。

 しかし、中間集団は実際に地域でさまざまな問題を解決したり政策を実現したりしている。たとえば産業別労働組合のUAゼンセンはここ数年組合員とともに「カスタマーハラスメント」対策に取り組み、実際に条例化された地域もある。スーパーやドラッグストア、タクシーの中で「カスハラ」に関するポスターを見た人は多いはずだ。労働組合に入っていない人でも、賃上げの恩恵に預かっていない人でも、例えば労働組合の結実させた制度のお世話になっている人はいるはずで、それは他の中間集団にもあてはまる。マインド的にフリーランスっぽくノマドっぽく生きている人が増える社会では、実際にお世話になっていたとしても共助や公助を享受しないことを前提として生活してる人が増えているから、中間集団の機能が実感されづらい。

 もう一つ、中間集団は「強制」や「動員」を苦にしない部分がある。これは主体性や自律性を重要視する現代の人々には理解されがたい部分でもあると思う。少し迂遠な話になるが、投票について講義の受講生と話す時「支持できる政策がない」「考えが合う政治家がいない」と答える人は多いと感じる......というか受講生でなくともこうした人は多いのではないかと思う。こうした考え方は、主体性と自律性に基づき、自分の考え方に合致する人なり政党を選ぶというやり方で、理性的な投票のやり方ではあるかもしれないが、別にそれが一つの選択肢ではない。周囲が投票してるからこの人、同じ組織の人が推してるからこの政党、でもいいはずだが、現代の私たちはそれがなんとなく許容できない。だから自分の頭で考えて、迷いすぎるか合う人がいなくて結果として棄権してしまったりする。

 私自身は社会運動を研究しているが、社会運動をしている人の中は(求めている社会の像はそれなりに近いはずなのに)中間集団に厳しい人も少なくない。これは、社会運動が自律性と主体性をとくに尊び、他者に流されることを嫌がる、つまり自分の頭で考える側面が強いという面もあると思う。近年は労働組合の調査も行うようになったが、そこで驚いたのは、社会運動と異なり、労働組合は「いやいややっている」「義務感でやっている」人が多いことだ。しかし社会運動はそれを(建前上)許さない。だから、しっかりした動機をもつ主体的な人が中心になる。そういう人からすれば「組織が推している議員に投票する/選挙運動をする」という中間集団の論理はわかりづらいだろう。(この辺は以下のインタビューでも話したので、関心をお持ちいただける方は読んでみてください)

 だいぶとりとめのない話になってきてしまったので、新党の話に戻したい。とりあえずインタビューにお答えしなくてはならないと思ったのでこの動画を見た。

 中道改革連合へのアンチコメントに野田・斉藤共同代表が答えるというものだが、ここで「新党の名前がダサい、怖い」というのもありそうな話だと思った。「名前がダサい」系の批判は今に始まったことでなく、むしろどんな社会運動にも中間集団にもつきまとう。おそらく政党もそうだろう。それを言ったら自民党だって日本維新の会だってれいわ新選組だってダサいわけで、それをこの新党に求めるのは、自律的・主体的な人々が個々の言葉に意味を求めすぎな側面もあるのだと思う。むしろ、なんでこんなに私たちは社会運動なり中間集団なりそれを基盤とした政党にダサいと言いたがるのかという問いのほうが、社会運動・中間集団嫌いを研究する立場として気になる。

 先日、Abema Primeに出た時、平将明元デジタル庁大臣が「自民党は国民政党だから。右から左まで本当に色々な人がいるの」といったことをお話ししていたのが印象的だった。もちろん、他の政党もそうだろうとは思うが、私はこの「本当に色々な人がいる」という表現が頭に残った。

 たぶん政党も中間集団もだが、とりあえず大きな部分(利害)が合っていれば集まって、そのあとで器の中身を詳しく決めてもいい。しかし自律的・主体的な有権者の私たちは、社会や政治について真面目に考えていればいるほどそれが許容できない。だから、その器の中身が自分の考えと合っているか、統一されているかを先に重要視してしまう。自律的で主体的な私たちは「本当に色々な人がいる」ことを許せなくなっているのかもしれない、と思ったりもした。

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