社会運動と宗教運動
先日、日本社会学会大会に参加した。日本で一番大きな社会学の学会で、社会運動関連の報告を中心に聞いたのだが、宗教運動・宗教運動家に関する報告がいくつか見られ面白かった。確かに公民権運動などでも、牧師がキーパーソンになっていたり教会が重要な動員基盤になっている(公民権運動のドキュメントなどを見ても「祈る」シーンは多い)。日本でも、認定NPO法人「抱樸」の奥田知志さんなど、宗教に関わる人々が運動を牽引する立場になられることは多いように思う。
宗教運動も労働組合や消費者運動と同じく社会運動の一つだが、研究者である私自身も他の運動と宗教運動をなかなか同じような目線で見られないことが多い。この原因として、やはり中核にある「祈り」がよくわかっていないのだと思う。
新宗教に限らず、キリスト教などの伝統宗教でも仕事させてもらうことはある。かつ、社会運動のイベントでも「祈る」ことはあるが、実は社会運動のレパートリー(手法)としてきちんと捉えられていない。Xでそんなことを書いたら、聖教新聞の方々がそれ企画にしましょうということで、創価学会八王子平和会館まで連れて行ってもらった。
若手の信者さんとの対談で、「最近の祈りでヒット作だったもの」「祈りをインストールしてない友達に祈るという行為をどう説明するか」などいろいろカジュアルに話してもらえた。「祈る」という行為を私も含め結構な人たちは消極的な行為だと捉えているが、実は積極的な行為なんだなというのがいちばんの発見。マインドセットを能動的というか肯定的というか積極的にする思考の転換でもある。社会運動として重要なのは、個人でやっているけれど「みんながおなじように祈っている」ことを想像できる点だろう。祈りは個人と共同体を繋ぐ互酬でもありコミットメントでもある。
だから「祈ったけど無駄」というのが(一時的に叶わないとか報われないことはあっても)そもそもない。ただ、日常的にやってないと効用が祈りのおかげだとは実感できないというか、例えば初詣にお参りするレベルでは効用も感じづらいだろう。内省や思索よりはもう少し広い事柄に思いをめぐらす行為だけども、私も含め現代の人の多くは決定的にそれが足りてないとも思う。
私自身、試しに寝る前に祈ってみたら(ChatGPTに祈り方を聞いてみてそれを参考にした。DIY祈り。参照したウェブサイトを見るに、宗教ばらばらだけども……)、壮大なことに思いを巡らせるのに慣れてないせいか、眠っている時の夢にまで影響した。この顛末は、聖教新聞デジタルのサイトに掲載されている(多分期間限定だと思うが会員でなくとも全文読める)。
信者の方から「家でも祈れるのになぜわざわざお遍路とかするのか?」と聞かれて、何か社会運動をめぐる議論に援用できそうだと思った。多くの場合、デモやイベントの場に行くことが社会運動であって、エコバッグを持つみたいな日々のいいことは社会運動にあたらない。でも、エコバッグにしても下ネタ言わないにしても、労働組合の人が職場でビラを渡しつつ労働者に悩みを聞くとかも、運動とはみなされないだろうけど個人の意識や共同体の何かを決定的に形作っている。逆側からの解釈で申し訳ないけど、祈りはそれのもっと純粋で本質的なバージョンで、このスキームを借りられるなら、私たちが日々、参加しなくとも日々運動している、何か社会の変容に貢献していると感じられるヒントがあるんじゃないかとも思う。
もしよろしければニュースレター「富永京子のモジモジ系時評」にご登録ください。
すでに登録済みの方は こちら