「仲直り」から見る、個人的なことと政治的なこと
『AERA』の特集「大人の仲直り」を読んだ。津田大介さんと東浩紀さんが数年ぶりに対談をするという記事だが、私自身、ポリタスTVやゲンロンカフェでお仕事することはあっても、お二人のご関係の経緯はよく知らなかった。そのためこの記事も、津田大介さんと東浩紀さん、というよりは、「長らく断絶していた友人同士の再会」がこうした形で特集化されることは珍しいなと思って手に取った。
個人的には、同じく「仲直り」についてお二人がお話しされているゲンロンの以下の動画のほうが、世間話とも批評ともつかない感じの曖昧なやりとりがあって良かった。
これは媒体の性格上仕方ないことで、お二人にも編集者の方にも全く責任はないと思うけど、AERAの記事を見て、なんでも政治やメディアに結びつけたがること、語りからわかりやすい示唆を得たがることの弊害も感じた。それがジャーナリズムなのかもしれないが、ジャーナリズムとしてもやや短絡的過ぎるという印象を受けた。
「個人的なことは政治的なこと」というのは、1960-70年代以降に生じた若者運動やフェミニズム運動といったアイデンティティ志向の社会運動が生み出した一つの発明だと思う。しかし、近年の動きを見ていると、個人的なことと政治的なことを性急に結びつけすぎではないのか、と思うこともたまにある。そうした性急な結びつけ方が、雑な議論や一面的な物の見方を可能にしてしまっているとも思う。
例えば他者が受けたセクシュアル・ハラスメントや差別の被害といった、本来なら他人事であるはずのことがらを、私たちがあたかも自分の傷や被害かのように認識・解釈できるのは「個人的なことは政治的なこと」であるからだ。だからこそ連帯が可能になっているとも言えるが、「連帯します」の一言で瞬時に繋がり、かつ、繋がることを無反省によしとしすぎだったのかもしれない、ともここ数年感じてきた。
以下のインタビューで、「共感」で繋がるというよりは「利害」で繋がった方が結果として連帯が長持ちするのではないかという話をしたのもそのためで、差異を踏まえないまま性急に共感でつながってしまうと、その後に露見する個々人の微細な立場や属性の差異をネガティブに捉える側に働きやすい。これに関しても興味深い論文があるので、そちらも少し貼っておきたい。
例えばAERAの記事の中で、おふたりがお子さんをプールに入れる話をしている。本来ならそれだけでも本来いいはずなのだが、でもそれを「子育て論」に持っていく必要は必ずしもないのではないか。世間話というか、ごく個人的な話をしている人を「何か主張をしている人」として描かなきゃいけないのはなぜだろう。AERAという雑誌だからといえばそうなるが、個人的なことが個人的なことのまま書かれて、あとは読み手の解釈に任せる、というのではいけないのだろうか。
記事内で、ファシリテーターである浜田敬子さんが「白か黒かで判断するのではなく、自分の考えが動いていく過程を体感する。しかし、それに耐えられる人がとても少ない」とコメントされている。これには同意するが、ある意味でこの記事も、曖昧なものをわかりやすい論に落とし込むという意味で近い形式ではある。こうした記事に関しても、曖昧さに耐えられず、教科書的に論点から解釈、意義まで用意してもらわないと耐えられない読み手が多くなっているのかもしれない。
東浩紀さんとは、ゲンロンカフェ「2024年を振り返る」https://genron-cafe.jp/event/20241229/ で対談した際に、『「ビックリハウス」と政治関心の戦後史』へのご感想もいただいた。1970年代以降、なぜ若者たちが非政治化したかのように見えたか、というのが本書のテーマだったが、なぜ非政治化したかというより、むしろなんでこんなにも何でも政治的になっていくのかのほうが重要では、といった東さんのコメントを思い出した。この記事を読んだ後で、確かにいま重要なのはむしろなんでも政治に結びつけたがってしまう傾向のほうかも、とも感じた。
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